アンミカさんのモデル時代、特にパリコレ出演時代がキレイだと話題です。
また、今やセレブなイメージがあるアンミカさんも若い頃は意外に貧乏暮らしだったようで、その頃の詳しいエピソードもご紹介します。
アンミカの若い頃がキレイすぎる!
↓18歳・高校生の頃のアンミカ
↓20歳の頃のアンミカ
↓25歳の頃のアンミカ
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↓33歳の頃のアンミカ
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↓35歳の頃のアンミカ
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その他、年齢は不明ですが、モデル時代のアンミカさんの写真を以下に並べます。
アンミカさんは身長171㎝。
モデルとしては目を見張る常人離れしているほどの身長の持ち主ではありませんが、当たり前にすごくキレイですし、オーラがありますよね!
パリコレと聞けば普通は縮み上がりますが、アンミカさんは海外でも堂々としています。さすがというほかありません。
アンミカがモデルデビューをしたきっかけが泣ける!
アンミカさんがモデルデビューする一番のきっかけは母親だったようです。
彼女が11歳の時、お母さんに咽頭がんが見つかります。そこで、「お母さんが生きているうちにモデルになる!」と決めたのが最初の始まりでした。
モデル事務所のオーディションを受けて落ちてしまうのですが、レッスン生にキャンセルが出た時にたまたま事務所に立ち寄り、繰り上げ合格となったのです。
アンミカさんは学生時代、いじめられていたのと身長160㎝で、陸上をやっていたために筋肉で身体が大きく見えてしまって、とてもモデル体型とは言えず、むしろ自分自身の容姿にコンプレックスを持っていたのが原因で、人の目を見てしゃべられなかったようなんですが、母親から、
「心地いい人が美人だから、姿勢を良くして」
「目を見て、しゃべって」
「口角を上げて笑顔で」
と、普段からアンミカさんにアドバイス。
さらに、残念ながら母親はアンミカさんが中学3年生の時に亡くなってしまいましたが、「手足が長いからモデルさんになれるかも」とお母さんからモデルになることを勧められたのでした。
最初は、「そんな私がモデルなんて・・・」と思ったのではないでしょうか。
しかし、お母さんに勇気づけられたのと、もう一つ中学時代の恩師である小林先生の尽力により、アンミカさんはモデルになることを決意したのでした。
中学生時代の担任の先生であった小林先生から、「あなたは仕切る力があるから、やってよ」と役割を与えてもらっていたアンミカさん。
文化祭や体育祭で消極的な生徒に声をかけて盛り上げるなどして、自分に自信がついたといいます。
そうやって、小林先生から与えられる課題をクリアすることで徐々についていった自信からだったのでしょう。アンミカさんは、執念の力でモデル業に就くことになるのです。
中学生3年生の時に、とあるモデル事務所に書類をなんと5回も送るも、全て送り返されてしまうのです。
それでも、そのモデル事務所に直接電話し、「写真写りが悪いので、実物を見た方が得だと思います。」と直訴し、面接のアポイントを取り付けて、実際に社長に会うも面接不合格。
ここでもめげずに、モデル事務所に応募しまくります。
面接した事務所の社長からは「また、大きくなったら遊びにおいで」と言われたことをきっかけに実際不合格しているのにも関わらず、毎週のように自宅から8駅もあったモデル事務所に自転車で通うようになるのです。勇気があるというかなんというか。ですね。笑
すると、向こうも根気負けしたのか。次第にキャンセルで空白になったモデルレッスンに参加させてもらうことができて、顔パスでしょうか?いつしか、モデル事務所に所属することになったのです。
そして、高校生でモデル活動を開始するも、実は。アンミカさんの父親はモデルになることに猛反対しており「モデルをやるなら家から出て、一流のモデルになるまでは家に戻ってくるな」「モデル以外にも勉強して資格を取れ。取れたら連絡をしてきていい」などと言われたのでした。
高校卒業後、18歳で単身フランスへ渡ります。
フランスにはツテもなく電話番号を調べて、とにかく20社の事務所に猛烈プッシュ。しかし、3社しか取り合ってはくれず。それでも、「アジア人を見てもいい」と言ってくれた3社の事務所に行くも、担当者にすら会えず、門前払い。
アンミカさんは、受付担当者に「どうして会ってもくれないの?」と疑問をぶつけます。
すると、「あなたが着ている服は、自分を良く見せていない。」と言われたそう。つまり、自分をマネキンとして見立てた時に自分の体型を理解して、洋服をより良く見せ着ている本人もカッコ良く見せようとするのがモデル。そのセンスを持ち合わせていない人間と会う必要はない。ということだったのです。
アンミカさんは失意の中、日本、地元大阪に帰国したのですが、まだまだ諦めません。アルバイトをしながらファッションの猛勉強をするのです。そして当時、仮所属だった事務所のマネージャーから京都で開催されるファッションショーに出ないか。と誘われるも、「素人モデルのファッションショーに出てもなぁ・・・」と当初、前向きではなかったのです。
しかし、自宅で貯金箱の中を確認すると父親からの手紙が入っていたのです。
- チャンスは突然来る
- 常にアンテナを張っておきなさい
手紙には、こう書かれていました。
お父さんは厳しい言葉を言いつつもしっかり、アンミカさんが努力する姿を見てくれていたんですね!泣けるエピソードです。
それで、ピンときたのでしょう。アンミカさんは京都のファッションショーに出ることに決めるのです。アルバイト終わりに、マネージャーと待ち合わせて京都へ。
そしてファッションショーの現場で、有名なドイツ人カメラマンのノーバート・ショルナー氏にモデル撮影はどうか。と声をかけられるのです。これがきっかけで、イギリスのファッション雑誌「I・D」に写真が掲載され評価を受けます。その後も、イギリスの伝説のカルチャー雑誌「The Face」で表紙を飾ったりしたことが話題になります。
さらにさらに、1990年に開催された京都でのファッションショーに出席していたデザイナーの山下隆生さんがのちに「BEAUTY BEAST」というブランドでパリコレデビューすることになるのですが、京都のファッションショーに同じく居合わせたアンミカさんい白羽の矢が立ち、パリコレに呼んでもらえたことで1993年、なんと若干21歳でパリコレデビューしてしまうのでした。
その後はモデルはもちろん、タレントにコント、歌にまで活躍の場を広げて、テレビ出演を数多くされていますね!
いやー、しかし「コレ!」と決めたら自分の好きなことやりたいことを貫くこと、最後まで絶対にあきらめない気持ち、その大事さを思い知らされるエピソードですよね!
アンミカは意外にも貧乏な生い立ち
アンミカさんの今の様子からはセレブな匂いがプンプンしますが実は若い頃、貧乏な生まれの女性だったんです。
具体的には・・・
- アンミカさんの父親が働いていた工場の2階にある4畳半一間の家に家族7人(両親、兄・姉・弟・妹、アンミカ)で住んでいた。
- 18歳になって初めてお風呂のある家に住んだ。学生時代は家にお風呂がないから、銭湯に行くかあるいは部活でシャワーを浴びて帰ってくる生活だった。
- 小学6年生の時から中学、高校と新聞配達やパン屋のアルバイトをして、自分の生活費は自分でまかない家計を助けていた
- 実家にあるテレビは拾ったもの
- 夜中に家族で市場へ行き、廃棄された果物を持ち帰り食べていた
- スイカの種を取っておいて、砂糖をまぶして飴のように舐めていた
- 新聞紙を拾ってきては、防寒具として使っていた
- 自宅が2回火事にあう
- 若い頃、miki HOUSEのトレーナーが流行っており、どうしても着たかったので手編みで編もうとしたが、途中で毛糸が足りなくなり、買い足した糸が太さが違ってたりして、結局『miki HOUSE』が『miki HORSE』に見えてしまい、友達から「馬」というあだ名を付けられた。
- 学校の給食費が払えなかった
- 歯医者は治療費が高いから行かない。歯並びは自分で矯正した。子供の頃、前歯がすきっ歯だったのを気にした両親が「子供の頃は歯が柔らかいから親指で毎日押しなさい」と言われ実行していたら治った。現在はきれいな歯並びのアンミカさんですが、歯医者さんにはまったくお世話になっていないようです。
- 若い頃は、ヒマワリの種やすいとんが主食だった。
- 毛糸は何回も再利用して、服を作っていた。今も靴下に穴があいても、縫って履き続ける。
- 家のすきま風がひどかったが、布団が薄く寒くてなかなか眠れなかった
- 寒い時には外に出て、焚火をしていた
- 今も台本やチラシの裏側をノート代わりに使う。
若い頃はかなり壮絶な生活をされていたようですが、その話をしている時のアンミカさんからは不思議と悲壮感を感じません。
むしろ、「楽しかった」と言っていますから、ほんとに強い女性です。
人生を切り開くためにはポジティブに考える力が必要ですが、アンミカさんはしっかりお持ちのようです。
このような状況でも懸命に自分ができることをやって家族に学校の友人に貢献していたことから現在の成功を得られているように思います。
やはり、GIVEする人間の運気は上昇しますからね。