菅原文太の息子で次男は踏切事故に?在日韓国人だった?

今回は菅原文太さんをご紹介します。

病名は?

菅原文太さんは、2014年81歳で亡くなられています。

病名は『転移性肝がんによる肝不全』でした。亡くなる7年に、膀胱がんを患ったそうです。

肝不全(かんふぜん)とはどのような病気なのか、調べてみました。

進行した肝臓癌にみられる肝細胞機能の不全状態をいう。
ウイルス性肝炎のほか細菌感染,中毒,
循環障害などによって肝臓の機能が低下した場合にも起きる。
肝臓の代謝機能が落ちるために老廃物
がふえ,種々の障害が起る。
特に血中アンモニア量の上昇は,脳の症状と関係が深く,肝性昏睡を起す
ことがある。また,腎不全を合併することもある。

肝不全と診断されてから亡くなるまで早ければ1週間、長いと1年と人によって余命は違うそうです。

元モデル?

菅原文太は俳優のイメージですが、元はモデルさんで、旗揚げしたばかりの劇団四季の1期生

身長は176cmと、この年代の男性にしたらかなり背が高かったんですね。

その後モデルクラブなどを設立しましたが、喫茶店でスカウトをされて俳優になられたようです。

代表作は?ワンピース?

そんな菅原文太さんの代表作と言えば『仁義なき戦い』です。

『仁義なき戦い』の原作は、手記をベースにした広島のヤクザ抗争を題材にしたノンフィクション作品です。

当時は抗争内容について実名で連載がされており、掲載雑誌『週刊サンケイ』はさまざまなヤクザから

恫喝を受けたそうです。ですが菅原文太さんの名を有名にした名作です。

キネマ旬報が2009年(平成21年)に実施した<日本映画史上ベストテン>「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」では、本作を歴代第5位に選出した。

この役柄は、マンガ『ワンピース』に出てくる『赤犬』のモデルにもなっているようです。

広島弁で『わし』としゃべる赤犬は、たしかに菅原さんに似ています。

また、この繋がりで菅原文太さんが精をだしていた、有機農作物を販売する際の商品パッケージにワンピース作者である尾田栄一郎さんのイラストが起用されています。

ちなみにこれをキッカケに菅原さんはワンピースを読んだそうですが…

実は高名な君の作品『ONE PIECE』も読んでいない、ますますスマン!家内が買ってきた『少年ジャンプ』を開いてみたが、『論語』を軽々と読みこなす(ウソ!)おれの知力(ウソ!!)をもってしても何が描いてあるか全く判読できなかった。

と、コメントを寄せられています。ちょっとお茶目な一面がのぞけますね。

映画館でこの作品を観た人たちはみな肩をいからせて歩き、気分は菅原文太さんだったそうです。

それだけ影響のある作品だったということですね。

そして同じく代表作である『トラック野郎』

一番星号という愛車であるアートトラックに乗った主人公星桃次郎の影響で、全国でデコトラが流行しました。また子供たちにはデコトラのプラモデルが大人気だったそうです。

菅原文太さんを偲んで全国各地からデコトラが300台以上集結したそうです。

はるな愛さんと軽トラのCMに出演もされたりと『トラック野郎』は、多くの人に愛された作品だったようです。

そして『北の国から』など有名作品にも出演をされています。

姪が妊娠後ひとりで堕胎をしたことを知り、お詫びにきた主人公一家に対しての『誠意って、何かね?』と重みのあるセリフが名言として話題になりました。

ジブリにも出演?

また、菅原さんはジブリ映画の声優もされていました。

有名な役では『千と千尋の神隠し』にでてくる『釜爺(かまじい)』の役です。

また『ゲド戦記』では『ハイタカ(ゲド)』役や、ジブリ以外でも『おおかみこどもの雨と雪』『韮崎』役など、さまざまなジャンルでも活躍をされていました。

とくに『おおかみこどもの雨と雪』を最後に、菅原さんは芸能界を引退されました。

理由は、東日本大震災が大きく影響したそうです。そのためこの作品は、菅原さんの遺作となっています。

故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。

菅原はこの席で震災以後、劇映画の存在理由が見いだせないことを語った上で、自身が震災直前まで都内の病院に入院していたことも告白している

よって「おおかみこどもの雨と雪」は見逃してはいけない作品ですね。

 

いのちの党?

菅原さんは芸能界引退後、有志で『いのちの党』というものを結成します。

党とはいうものの政治団体ではなく、グループの集まりだったそうです。

12月5日には有志らとともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、代表として活動した。

なお、「いのちの党」と名称が付いているが、あくまで「仲間の集まり」の意であって政界進出を意識してのものではないという。

また、以前より噂されていた政界への進出は完全否定をした。
入院直前の11月1日
には、沖縄知事選候補の翁長雄志の応援演説に出席していた。

また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている。

いのちの党の志

いのちの党は、この国が経済先進国であるだけではなく、真の民主主義の精神が国民と政治に根ざした国となるよう、現在と未来の選挙民と立法府、行政府に提言するための、志を持つ個人の緩やかな集まりである。

このとき菅原さんは79歳。演説や講演を行い、側面から政治を支えていきました。

韓国人?

菅原さんは韓国人では?とのウサワがあります。

菅原文太さんを募金委員長に全国で募金活動を展開し、1988年「社会福祉法人こころの家族」の設立

認可を受け、1989年、日本で初めての在日韓国老人ホームとなる「故郷の家」が、大阪府堺市に建設されました。

これまでに寄せられた数々のこころあたたかい募金をもとに、堺市はじめ大阪市、神戸市に特別養護老人ホーム「故郷の家」を完成させ、2009年4月には「故郷の家・京都」が京都市南区東九条の地に竣工しました。

在日韓国人老人ホーム設立の募金委員長をつとめていたからのようです。

ですが、たしかな情報はありませんでした。

嫁は?

そんな菅原さんを支えていた家族はどんなかたでしょうか。まずは奥様を調べてみました。

菅原さんは奥様は文子(ふみこ)さん。奥様は8歳年下の26歳、菅原さんは当時34歳。

馴れ初めは文子さんは、菅原さんのマネージャーをされていたそうです。

そして亡くなるまで、公私ともにサポートをされていたとか。

文太を一躍、スターダムに押し上げたのが、映画「仁義なき戦い」(73年、東映)だ。

当然、芸能マスコミからも注目されるようになる。この時、文太は40歳。
文子夫人とは結婚6年目で、すでに子供ももうけて
いた。

妻子があることを隠していたわけではないが、女性週刊誌が家族と散歩する姿を激写したところ、文太は激怒した。

菅原さんはご家族をとても大切になさっていたようです。

文子さんは菅原さんが亡くなったさい、次のコメントを発表しました。

七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。

一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。
もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわない
よう、共に声を上げることでした。

すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。

恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。      

現在は菅原さんと活動していた農業を続けらるかたわら、辺野古基金の共同代表もつとめています。

子供は?

菅原さんには1970年36歳のときに、第一子である長男の加織(かおる)さんがうまれます。

そして第二子・第三子である長女・次女合計三人のお子さんがいました。

娘さんは一般人のようですが、長男の菅原加織(かおる)さんは俳優をされていました。

高校在学中に映画でデビュー、その後は菅原さんのバックアップもありテレビや舞台で活躍をされていました。

息子が自殺?

ですが2001年菅原さんが68歳のとき、加織さんが31歳の若さで事故死します。

事故現場はこちら

2001年10月23日、東京都世田谷区北沢の小田急小田原線の踏切内で上り電車に撥ねられ、病院に搬送されたが頭や胸を強打しており、翌24日の午前1時すぎに死亡が確認された。
事故当時、携帯
電話で話をしていたという。
また、「酒を飲んでいたようだ」という目撃証言もあった。31歳没。

はじめは自殺も疑われていましたが、飲酒運転だったうえ携帯電話で通話していたため、

踏切の警報音が聞こえなかったのでは?とも言われています。

翌年にはNHK大河ドラマ『利家とまつ』で親子共演することが決まった矢先のことでした。

この不幸な出来事に菅原さんは大変なショックを受け、一時は芸能界を引退することまで考えさせたそうです。

文太さんは加織さんをことをかわいがっていた。

高校生の加織さんがデビューした時などは「オレのデビュー時よりずっといい」と相好を崩しっ放しだった。

目を細めたその顔は“雷オヤジ”ではなく、普通の父親の顔だった。
26日に葬儀・告別式が営まれ、文太さんは憔悴(しょうすい)し切った様子。
報道陣に
口を開くことはなく、弔問した親友の長門裕之さんが胸中を代弁。文太さんは子供が親よりも先に逝くという、この世の不条理に愚痴をこぼし「オレ、もう仕事したくない…」と口にしたという。

ですが、菅原さんはこのあと映画『わたしのグランパ』で1年ぶりに仕事復帰を果たしました。

天国の愛息に捧げる思いを込め、約1年ぶりの仕事復帰。「たった1年で悲しみが消えるわけじゃない。

いつまで考えていても加織が戻るわけではない。
メソメソしててもしようがない」と前を向いた文太さんだっ
た。

菅原さんが亡くなった際、太宰府天満宮で家族葬が執り行われました。

なぜかというと、そこに加織さんの遺骨が納められているそうです。

 毎日新聞によれば、太宰府天満宮での納骨は知人の紹介を受けてのものだったそうだ。「学問の神様」

菅原道真公と同じ「菅原」であることが決め手になったかは分からないが、東映広報室によると菅原さんはもともと神道だったといいう。

加織さんが亡くなった際、太宰府の信徒会に生前入会。「その時がきたら、息子の眠るところで。」

納骨堂と墓所の土地を購入されていたそうです。

俳優だけではなく、農業や政治にも関心を持ち活動をされていた菅原文太さん。

忘れてはならない、昭和の名優のおひとりですね。

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