今回は、昭和の伝説のスター、山口百恵さんについてご紹介します。
山口百恵さんの生い立ち
山口百恵さんは言わずと知れた、昭和の伝説の歌姫です。
「プレイバック」「いい日旅立ち」「秋桜」などなど、数々の名曲が生まれました。
ですが人気も絶頂だった頃に突然引退宣言をし、その潔い去り方も美しいと今も語り継がれる存在です。
そんな百恵さんですが、実は壮絶な生い立ちの持ち主なんです。
父親は在日韓国人?
百恵さんは1959年に東京都の渋谷区に生まれました。
百恵さんの母は父の愛人だったそうです。ということは、お父さんには本妻がまた別にいて、百恵さんは不倫相手の子どもだった、ということなんですね。
また、百恵さんの父親が在日韓国人あるいは在日朝鮮人であるという噂がネット上で広がっているようですが、これはガセだそうです。
父親がそういうふうに噂されてしまった原因として、百恵さんが幼少期に横須賀に住んでいたことがあるようです。
横須賀の鶴が丘の近くに不入斗という町がコリアンタウンと呼ばれ、県営住宅の住民に朝鮮系の方が多く鶴が丘団地にも朝鮮出身の方が多くいたためにそのような書き込みが増えた。
父親が朝鮮に仕事で頻繁にいっていたのでどこかの雑誌が山口百恵の父親は朝鮮系の人間のような報道がされた。
実際には、母にも父にも朝鮮系、韓国系の血筋はないので、百恵さんは「純日本人」ということになります。
また、父が在日の方の施設(老人ホーム)にいる、という噂もありましたが、こちらも「ガセ」ですね。
父親との確執
百恵さんは自叙伝「蒼い時」の中で、「私に父親はいない」と語っています。
山口百恵さんの両親は籍が入っておらず、母親はいわゆる愛人・妾でした。
父親(医者)は他に本妻なる女性がいて、そちらの方にも子供がいたそうです。
父親はたまに百恵さんの家にきていたといいますが、経済的には貧しく、母親は内職で家計を支えながらも生活保護という生活を送っていました。
医者であれば収入は悪くないはずですが、自分で不倫して子どもを作っておきながら、経済的援助はしなかった、ということですよね。
百恵さんの自叙伝によると、父親は毎週日曜日しか顔を出さなかったとか。
さらに、百恵さんが歌手デビューして有名になり、稼ぎも出てきたとたん、掌を返すように親権を母親から奪おうとして裁判沙汰になったり、百恵さんのギャラをむしり取ったりしたようです。
最終的には、百恵さんは手切れ金を渡して父親と縁を切ったそうです。
↑百恵さんの父の顔が分かる画像がありました(中央)。久保茂さんという方だったんですね。
歌手を志したのは家のため
結果として、百恵さんは「昭和の歌姫」と称されるほどの存在になったわけですが、もともと歌手を志したきっかけも、「家のため」だったそう。
百恵さんには5歳年下の妹(淑子さん)もおり、母子家庭+生活保護での3人の生活は貧しいものでした。
生活が苦しかったので、歌手になればたくさんお金が入って家計を助けられる、だから歌手になろうと思ったそうです。
苦労人だった百恵さんの母・正子さんは、1989年に51歳の若さで死去しました。葬儀は、学会葬で行われたそうです(創価学会員だったため)。死因はよく分かっていませんが…。
家族
百恵さんは、1980年、三浦友和さんと結婚しました。現在もその結婚生活は続いており、「おしどり夫婦」として知られています。
2人の交際は、思いがけないところで世間に知れ渡りました。
1979年10月、大阪でのリサイタルにて、山口百恵さんは「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、交際していることを突然宣言したそうです。
その後、三浦友和さん自身も記者会見にて、結婚を前提に交際していることを発表しました。
そして、1980年3月には、婚約発表と同時に芸能界引退を宣言し、引退後は、表舞台に姿を現すことは一切なくなりました。
歌手デビューしたのも、もともとは「家のため」という目的があったので、それを達成した百恵さんは、今度は自分が幸せな家庭を築くために潔く身を引いたのでしょう。
きっと、芸能界での栄光とか、そういうものには興味がなかったのだと思われます。
↑二人の結婚式の時の写真。とても幸せそうですね。
三浦さんと百恵さんの間には、2人の息子さんがいます。
2人の息子について
長男・三浦祐太朗
長男の三浦祐太朗さんは、シンガーソングライターとして活躍しています。
“今世紀最大の二世タレント”として大々的に報道され、実際に母親譲りの歌唱力の持ち主です。
しかし、デビューするも泣かず飛ばず。
祐太朗は中学時代の同級生を中心に結成したバンド『Peaky SALT』のボーカル・ユウとしてメジャーデビュー。
しかしCDは思うように売れず、2010年には音楽会社・バップとの契約が切れて、一部メンバーが脱退。同年9月には残ったメンバーとも方向性の違いを理由に、活動休止を発表した。
活動休止後は俳優の道に進んだりもしたようですが、それもあまりうまくいかなかったようです。
また、バンドを組んでいた時、百恵さんの名前にすがろうとして失敗したこともあったとか。
バンドメンバーと仲違いした原因は、他のメンバーが『もっと売れるために祐太朗のお母さんに協力してもらおう』と、CDの推薦文やライブの告知を、百恵さんにお願いしたそうです。
当の祐太朗も『それいいかも』と適当にOKを出してしまい、百恵さんにお願いしたところ『あなた達ががんばることでしょう!』とピシャリ。安易に三浦家の威光にすがろうとしたことで、ケンカになってしまったんです。
確かに、そこは「それいいかも」ではなく、「俺たちだけで頑張ろうよ」と言うべきところでしたね。そして、それをきちんと叱れる百恵さんはやはり良いお母さんだなと思います。
次男・三浦貴大
次男の三浦貴大さんは、俳優です。
大学時代は精神保健福祉士を目指していたが、社会には様々なタイプの人間が存在することを知って、俳優になることを決める。
大学卒業間際、父・三浦友和にそのことを報告すると、反対は一切なく、知り合いの『ALWAYS 三丁目の夕日』の阿部プロデューサーに相談してくれ、デビュー作が決まった(映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』)
同作での演技が評価され、第34回日本アカデミー賞新人俳優賞および第35回報知映画賞新人賞を受賞する。
兄の祐太郎さんとは違い、両親の名前にすがることもなく、テレビや映画への出演も増え、俳優として地道に成長を続けています。
ですが、兄弟は仲が良いようで、一緒に飲みに行ったり、誕生日にはプレゼントをあげたりしているようです。
百恵さんは、自分の生い立ちには恵まれなかった分、幸せな家庭を築くのに成功したんですね。